プラトン「プロタゴラス」を読んで


以下の文章は訳者藤沢令夫の解説を参考にしたところが大きいです。


プロタゴラス」は、ソクラテスヒッポクラテスの二人が当代随一のソフィストであるプロタゴラスが逗留する宅へ訪れた際に行われたいくつかの談論の一部始終をソクラテスがかれの友人に報告するという体裁になっている。ソクラテスプロタゴラスの討論は、徳目は特定の教育によって人に授けられることの可能性に関する意見の対立から発して、主に徳の構成物――知恵・正義・節制・敬虔・勇気――の性質の検討を軸に展開される。すなわち、徳の「部分」とは互いに性格や機能を異にしながら徳を構成するものであることや、勇気の固有的性質を主張するプロタゴラスの立場は、快と善、苦と悪の一致を示すことから始まって「善を善と知りつつ、目先の快楽(=矮小な善)を優先して悪を選ぶ」という世人の行為を善の大小に関する計量の無知に結びつけるソクラテスによって、勇気と知恵が不可分であることが証明されるに及んで、最終的に論駁されるのである。
しかしながら、「プロタゴラス」の辿る筋道におけるある特殊性を鑑みると、本作におけるソクラテスが問答法で目指したこととは、ある一つの思想的真理に到達することでも、討論相手に無知の知を自覚させることでもなく、ソフィストの驕った権威意識とかれらの拠って立つ<知>の脆弱性の指摘にあったのではないか。というのも、その理由として第一に、ソフィストが最も得意としていた詩作解釈を、議論が劣勢であることを察知して話を逸らしたがっていたプロタゴラスに唐突に求められたときに、かれが臆面も無く滔々と演説してみせた点が挙げられるからである。詩の解釈とは、ソクラテスが「凡庸で俗な人々の行う酒宴とそっくり」と批判するところのものであったが、かれ自身がそれまでの一問一答を中断してこじつけめいた屁理屈やもっともらしい詭弁術をプロタゴラスに対して披瀝したのは、かれらソフィストへの揶揄としてのパロディであり同時に皮肉であったと読める。第二に、論議当初の相互の見解と議論を通して相互が証明しようとしている主張が食い違っていることの確認をもって問答が終わっていることがあろう。ソクラテスは始め、徳目は教授され得ないものだと主張しておきながら、一方でそれが(学ぶことの可能な)知識であることを証明してしまった。そしてプロタゴラスは徳目が教授され得るものだと当初に主張する他方で、論争においてはそれが知識であることの同意に極力抵抗しているのである。こうして双方は対話を通して、徳の認識に関して背理的な混乱状態へと投げ込まれてしまうわけなのであるが、当のソクラテスがこの状況を予測しなかったはずがない。かれはプロタゴラスに代表されるソフィストの徳への理解や真実の把握が不十分であることを感知した上で、あえて徳が教えられないものであるという立場を事前に示しておくことで相手を挑発し、そこから「徳は知である」という主張を逆説的に導出してみせたのだ。
プロタゴラス」は、ソフィストであるプロタゴラスソクラテスの資質を讃えて対話を終えているが、<知>に不誠実であるとともに無知の知に到達することもないソフィストへの痛烈な批判が問答の裏に込められていることを考えれば、これもまたかれらの<知>の鈍感さと欺瞞性を示唆していると捉えることができる。それがソクラテスに対置して描写されることで、<知>を真摯に追求していくかれの姿が逆に自然と浮かび上がってくる仕掛けになっているのだろう。