ウォートン「エイジ・オブ・イノセンス」

エイジ・オブ・イノセンス―汚れなき情事 (新潮文庫)

エイジ・オブ・イノセンス―汚れなき情事 (新潮文庫)

1870年代のニューヨークの上流社会に暮らし、メイ・ウエランドとの結婚をひかえたニューランド・アーチャーは、旧弊な家族観と小世界のつまらない慣習からの脱却を心の奥底で望んでいた。優雅でみかけの愛想は良いが、冷淡で不毛な社交界の日々は、かれの知的好奇心と芸術的感性を満たすものではなかったからだ。かれは、自分の漠然とした人生への期待を、離婚騒ぎを起こしたオレンスカ伯爵夫人の存在と彼女への愛慕に仮託し、ついには家族も地位も捨て去ってパリへ駆け落ちすることも辞さないほど思いは高まる。だが、アーチャーは、蔦のようにまとわりつく親戚づきあいの慣習に絡め取られており、結婚の威厳を保つこと、家族を醜聞や悪評から守ること、こうした旧い道徳観としきたりから抜け出そうとあがく真似をしていたにすぎなかった。かれの反抗の身振りが、不自由な檻の中に束縛されながらも、見かけの優しさに満ちた上流階級の温室の中でなされるものであることを感じ取ったオレンスカ侯爵夫人は、ひとりパリへと飛び立ち、アーチャーをニューヨーク社交界の温室にとどめておこうとする。それは、彼女の廉潔がなにより恐れさせたことは、かれが家族への責任と義務という現実から踏み出して、自分と同じように悪評と醜聞に塗れることだったからだ。アーチャーが彼女を愛すると同じほど、オレンスカ伯爵夫人はかれを傾慕しておりながら、二人の愛は遠く離れているときだけ間近なものとなる。こうして二人の愛は成就することなく、伯爵夫人は、アーチャーの胸の中で抽象的な愛の幻としてのみ生き続ける――。


このように、「エイジ・オブ・イノセンス」の主軸はいくぶん叙情に偏りすぎた、ややもすると図式的になりがちなロマンチシズムではあるのだが、私見では、この作品の出色は別のところにある。それは、旧式の家父長制の家族観に縛られる新婚のニューランド夫妻が、自分たちに与えられた限りの思いやりを尽くしながらも、互いの心理を測ろうとひそやかに呻吟する幾多の断片的な場面である。オレンスカ伯爵夫人という事件をめぐって、夫婦は、息苦しい家庭生活の慣習の枠組みのなかで、ときにすれちがい、ささいな嘘をつき、家庭の危機の兆候を愛想の良さでもって取り繕おうとする。円満な家庭生活に偽装されたこれらの駆け引きは小説においては明示されず、アーチャーの不義についてメイが本当のところどこまで知っているのか、知っているとしてどのように感じていたのかはついに語られることはない。アーチャーの目を通して語られるこの小説では、メイはその無邪気さと率直さによって旧弊な道徳観に埋没しきった、従順かつ家庭的な妻でしかない。しかし、この小説が徐々に描き出すことは、彼女に与えられた素朴な清楚さとは、実際は伝統的な社会慣習が彼女に押しつけたもので、彼女もまたアーチャーと同じく、自分を絡め取って離さない道義と家族観の中でもがき苦しむ、ひとりのかよわい人間だということだ。


エイジ・オブ・イノセンス」は、アーチャーとオレンスカ伯爵夫人によってそれぞれ代表された、異なる価値観の対立と葛藤が主題だと考えがちだが、実はこの二人の主旋律の裏に、メイというきわめて重要な伴奏が一貫して響いていることがわかる。社会慣習を写し取った絵画のようにただそこにいるだけだと思われた彼女は、主旋律の派手なロマンチシズムの影にたたずみながら、張り裂けるような胸をひっそりといだき、澄みきった目を青く涙に濡らしている。悲しみと不安に打ちのめされそうになりながらも、夫の心に触れようと届かない手を健気に伸ばす彼女の姿を透かし見るとき、読者は心を強く打たれる。

フォークナー「死の床に横たわりて」言葉から隔離された人びと-踏みとどまる人びと

貧農バンドレン一家の主アンスの妻アディは、結婚前は頼りとする家族のいない、天涯孤独の学校教師であった。彼女はあつい信仰を胸に秘めながらも、《ちょうど蜘蛛が口からぶら下がって、からだをふったり、ねじったりしながら、ついぞ触れ合うことがない》ように、言葉というものを《人間がお互いを利用し合う》ために作り上げられたにすぎないものと感じていた。それはアンスと結婚してからも同じで、自分の夫が語る愛についての言葉すら、よそごとに感じていた。彼女は、虚無のなかをたゆたうように生き、病の床に伏してからは、医者に診せられることもなく死を待つだけだった。そして、息子がのこぎりで自分用の棺の板を切りこむ音が響く部屋の中で、「生きてる理由は、死ぬ準備にある」という父の言葉を心中に抱きながら死んでいく。残されたバンドレン一家の父子は、アディを埋葬するために、棺に収めた亡骸をジェファソンの町の墓地へ運んでいく。父子は水難や火難にあったり、馬車用の騾馬を失ったりという散々な旅路をへるが、その長い旅のあいだにアディの亡骸は腐り果て、ふんぷんたる死臭を放つ――。


アディにとって自分の生きる理由は、罪によって流れる《恐るべき血、大地にたぎる赤く苦い血に対する義務》とだけしか思えなかった。彼女は生前、病床で次のような独白をする。

で、キャッシュ(注:アディの長男)がお腹に来たのがわかったとき、生きてゆくのは恐ろしい、これがその返答だったと悟った。そのころだった。言葉なんてものが役に立たぬとわかったのも。言葉なんて人間のいおうとしてることにぴったりとあてはまったためしがない、とわかった。キャッシュが生れてみると、「母性」なんて言葉は、たまたまそんな言葉が入り用になった人間が作り上げたもんだ、とわかった。

で、コーラ・タルが、あんたはほんとうの母親というもんじゃないって、私に何度もいったとき、私はいつも考えた、言葉ってものは、手早く無実に、細い一列にならんで、まっすぐ空に上って、一方、行為のほうはひたすら大地にしがみつき、地べたを這ってゆくので、しばらくたつと、この二本の列はひとりの人間では到底跨ぎきれぬほど遠く離れてしまうのだ、と。また罪とか愛とか恐怖とかは、罪も愛も恐怖も全然知らない人が、全然知らぬことを表わすための、ただの音にすぎないし、この連中には言葉を忘れてしまうまでは、知りようもないものなのだ。

言葉から身を置き、言葉から隔絶した彼女は、容赦ない膂力をふるう嵐が過ぎ去るのをじっと耐えしのぶみじめな家畜のように、ただ黙して死んでいく。それによって、初めから語る言葉など持ち合わせていなかったかのように世間から扱われ、アディという人間がそこにいたことのかすかな証すら根こそぎにされてしまう。世間とは、言葉をわがものとし権勢をふるう多数者のことだ。言葉がほんとうは何を表わすのか知らず、言葉の表わす感情をいっさい感じたことがなくとも、《人間がお互いを利用し合う》ためだけに作り上げられた言葉に密着しさえすれば、世間の側に立つことができる。そうすれば、言葉から隔離され、言葉から取り残された人びとを、まるでなにもわかっていない動物かなにかのようにあしらっても文句一つ言われないのだ。


メルヴィル「バートルビー」内面=偶像を拒むこと - 口の中の腐れ茸


アディは信仰ゆえに世間で通用する言葉を信じることができず、行為と結びついた苦い血の大地へと沈んでいった。一方で、メルヴィルの「バートルビー」は、このような言葉の無力にさらされながらも、世間に対するつかの間の抵抗を試みた男の物語と見ることができる。バートルビーは、世間の文法にのっとった言葉ではなく、まさに《まっすぐ空に上って》いく一列の煙のような言葉――「しないほうがいいのですが」という不可解な言葉――を断片的に発することで、自分の雇用主である弁護士を翻弄する。
弁護士とは、法律や法用語といった決まりごととしての言葉を駆使して論理を組み上げる専門家であり、この意味で、世間に通用する権力として言葉を利用する世間の代表者だ。バートルビーは弁護士に対して反逆を企てることにより、法用語のように定義づけされておらず、行為と緊密に結びついてもいない言葉がこの世界にあることを指し示す。かれの発する言葉は、かれの《いおうとしてることにぴたりとあてはまったためし》などなく、行為からすでに《ひとりの人間では到底跨ぎきれぬほど遠く離れてしま》っている。それは意図や行為から無限に隔たった、どこにも密着していない《ただの音にすぎない》。しかし、それは世間の手垢でまみれる以前、つまりお互いを利用し合うためだけに作り上げられる以前に、他の誰でもないかれ自身が知り、感じたことを表わすためだけにとっておかれた言葉でもある。ちょうど、代書人がしたためる法律文書がほんとうは何を表わすのかに関わりなく、したためられた文章が代書人にとっての意味や行為から遊離して、何を表わすでもないただの象形文字として、この世界の空隙をただようのと同じことだ。この言葉以前の言葉*1を他者が少しでも解釈しようとする途端に、それまで通用していたと思われた言葉を依り代としていた世間の権力は脱落し、人間の行為から遠く離れて、言葉は行き場を失ってしまう。というのも、どこにも密着していない、世間の合意に基づかない言葉が言葉としてあることを認めることは、自分たちがそれまで使っていた言葉が、それがほんとうは何を表わすのか知らなくとも使えていたことの告白になるからだ。そしていままで慣れしたんできた言葉は、言葉が指し示すことを《全然知らない人が、全然知らぬことを表わすための、ただの音》になり、われわれは真の意味で言葉から取り残される。

だが、ただの音以外になにも残らないわけではない。煙のように茫漠とした《ただの音にすぎない》言葉の群れから立ち上がるのは、動物の境位にあえて踏みとどまるバートルビーという男のたたずまいが照らし出す、取り決められた言葉が生まれ出る以前からそこにあった人間の尊厳そのものなのだ。

*1:デリダならこれを原-エクリチュールと呼ぶことだろう

トマス・ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」

信号とは、じつは無価値なかす、世俗的な予告であって、発作中に啓示されたものとは無関係である。エディパは、これが終わったとき(終わるものだとして)、自分にも残っているものは手掛かり、予告、暗示などの記憶の寄せ集めだけで、中心にある真実そのものが残ることはないのではないかと思った。中心にある真実は、なぜか、いつ出現しても明る過ぎて記憶に堪えない。いつだってパッと燃えあがって、そのメッセージを復元できないように破壊してしまい、日常的な世界が戻ってきたときに残っているのは露出過度のための空白だけ、ということになるのではないか。

カリフォルニア州キナレットに住むエディパは、ある日、元愛人であった大富豪ピアス・インヴェラリティの遺言管理執行人に指名される。彼女は、遺産の調査中に出くわす事件のそこここに、中世以来存続するという闇の反体制組織<ザ・トライステロ>が実在する証拠を見出し、次第に、この世界の裏側に潜む、《秘密の豊かさ、隠された濃密度の夢の世界》をパラノイア的に紡ぎ出していく。だが、それが亡きピアスが自分に仕掛けた大掛かりな芝居であり、<ザ・トライステロ>の存在が彼女の妄想にすぎないというもうひとつの可能性も浮かび上がってくる。二つの陰謀のいずれが真実なのか、それとも、かいま見た二つの陰謀の可能性が、いずれも単なる空想や幻覚のたぐいにすぎないのか、けっきょく判然とすることはない。
《手掛かり、予告、暗示などの記憶の寄せ集め》という信号の海に投げ出されたエディパは、複数の解釈可能性に宙吊りにされたまま、もはや、陰謀など考えることだにしなかった以前の日常世界に戻ることはできない。世界にあるものは、すでに燃えつきた《中心にある真実》を指し示す《信号》か、さもなければ《露出過度のための空白》のみと化す。この空白とは、《出口のなさ、人生に対する意外性の欠如》であり、同時に、レメディオス・バロの「大地のマントを刺繍する」と題された画において、乙女たちが紡ぐタペストリーが満たそうとする虚空そのものである。エディパは、魔法をかけられて塔の中で刺繍をさせられる乙女たちが描かれた絵画を目の前にして、《中心にある真実》、すなわち啓示の存在を認知はするが、それは彼女もまた塔の中で永続的に閉じこめられた女のひとりであることを確認するだけであって、塔の中から抜け出すすべが与えられるわけではない。

画のなかにはハート形の顔、大きな目、キラキラした金糸の髪の、きゃしゃな乙女たちがたくさんいて、円塔の最上階の部屋に囚われ、一種のタペストリーを刺繍している、そのタペストリーは横に細長く切り開かれた窓から虚空にこぼれ出て、その虚空を満たそうと叶わぬ努力をしているのだ。

*1

*1:レメディオス・バロ「大地のマントを刺繍する」

オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

真紅のくちびる、無邪気な碧い眼、ちぢれた金髪のすばらしい美男子であるドリアン・グレイは、画家バジルのお気に入りのモデルであり、バジルにとっては、芸術を芸術たらしめる、見えざる理想の権化として崇拝の対象ですらあった。事実、ドリアン・グレイは世間の汚濁をいっさい知らず、自分自身の美しさすら自覚のない、純情にして恬淡な一青年だった。ところが、この青年がバジルの友人ヘンリー卿と出会い、かれにかれ自身の美しさと、ある種シニックに満ちた快楽主義を教えこまれたときから、かれは美的感覚のみを追い求め、放埒にしてときとして淫蕩な快楽にふけることを覚えるようになる。それと並行して、バジルが描いたかれの美貌を忠実に写し取ったはずの肖像画は、しだいに狡猾さと偽善にねじれた醜さをたたえるようになる。後半、ドリアンは自分の罪悪を強くなじるバジルへの憎悪から、かれを殺害するという蛮行におよぶ。この抱えきれない大きな罪業へのおびえから、ドリアンはやがて自身の頽廃的な快楽主義からの改心を誓うものの、いやらしく老けてゆく肖像画に魂の呪わしい警告を見てとり、罪悪から逃避して平和を手に入れんものと肖像画をナイフで突き刺す。それはかれ自身の死をも意味するのであった。
「ドリアン・グレイの肖像」のおおまかなあらすじはこのようなものである。肖像画はドリアンの美しさが丹念に描きこまれたものであり、画家バジルはかれの見えざる永遠の理想をこの偶像に託した。この小説の最後において、おそるべき肖像画が実はドリアンの良心であり、かれの魂そのものであったことが明らかになるわけだが、このモチーフは、バジルが常日頃探し求めて、ついにドリアンその人にその完全無欠な暗示を見出したところの芸術様式――魂と肉体の調和――に先取りされていたものに他ならない。この意味で、顔貌の醜怪さが、その人間の道徳的な低劣を表すというこの作品の核心は、実はバジルの信念の直接的な反映である。だが、必ずしもドリアンはバジルと同様に、醜くゆがんだ肖像画に精神の堕落と腐敗を見て取るわけではない。かれは肖像画を厭わしく思ったり、おびえたりするものの、ときとしてある種グロテスクな快感とともに嘲笑を浴びせたりもする。それは、良心に対するドリアンの態度が、バジルの素朴なモラリズムと、ヘンリー卿の逆説に満ちた冷笑主義とのあいだを往復するかのように揺れ動いているからである。良心に対する態度をめぐるドリアンの変容を軸にこの小説を読むとき、われわれはここに、無垢で純情な青年がいかに罪に手を染め、それと対峙するかというビルドゥングス・ロマンを見出すこともできるだろう。この美しい青年はしかし、自身が犯した恐ろしい罪業についに耐えることができずに、おのれの良心と無理心中を遂げる結末を迎えるのである。

ゼーバルト「アウステルリッツ」

アウステルリッツ

アウステルリッツ

人間の手によって計算され、意匠をこらすことのできる、ゆるぎない建築物。夢幻のように捉えどころがなく、決して真実にたどりつくことのない、再構成しようとする意志がついに挫折しては後退を余儀なくされる歴史。これら二つの対立、あるいは代補のなかに街という中間項が入りこんで撹乱をうながすとき、語り手アウステルリッツはかれの内側にひそんでいた歴史の表象に包まれて船酔いをしたかのような惑乱を覚える。かれの惑乱は、街という中和剤によって和らげられて、意匠ならざる歴史的なるものへと、立ち返ることを学び始めることに由来している。ここでいう歴史とは、建築物への飽きることない関心へとすり換えられることでこれまで抑圧してきたかれ自身の歴史であり、そして、かれ自身が投げこまれ、悪夢と災厄のただなかへと怒涛のように雪崩れこんでいった戦乱の歴史である。

チェーホフ「かもめ」

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

チェーホフの奥深さは、筋の展開の平易さに反して、しばしば謎に満ちた象徴表現が使用されるので、読み方と注意を向ける視線によって、まるで異なる解釈を次々と呼び寄せる点にある。例えば、巻末に解説を寄せている池田健太郎は、うらぶれた女優ニーナと文士トレープレフの人生に対する思想の相違が、二人の明暗を分けたと考えている。つまり、ニーナの救いは、たとえ恋に敗れ信念が失せようとも、忍耐力によって自らの使命を得たところにある。これに反して、抽象的な芸術の観念の渦に囚われ、妄想と幻影の混沌のなかをふらつくトレープレフは、信念がもてず、人生の過程を耐え忍ぶ忍耐も信じきることができずに、ピストル自殺にいたるというわけだ。この解釈では、まるで「かもめ」という戯曲が、栄光を目指してひたすら忍耐することを称揚するような、立身出世の指南書のように思えてくる。


ところが、実際に読んでみると印象はまるで異なる。当初、ニーナは恋愛劇にしか興味がなく、女優として俗世の栄誉と名声を手に入れようと目論んでいた。しかし、いざ女優業へと飛びこんだ途端に、現実という容赦ない渦のなかへと巻きこまれ、その苛酷さに一度は破滅する。彼女は、三等列車に乗り、下卑た商人連中にちやほや付きまとわれるむごい生活から抜け出る術を知らない。それでも、トレープレフの演劇の芸術性を真に理解し、喜び勇んで役を演じるすばらしい精神力を手に入れる。彼女の心象風景として取り憑いている、撃ち落とされて剥製にされたかもめはそのアイロニカルな象徴である。その一方で、トレープレフが、猟銃でかもめを撃ち落とすことを下劣な真似だと感じていたことは、注目に値する。かれは新形式の芸術を立ち上げるという志のもとにあって、破滅を経験することなく文筆家となり、それゆえに心を入れ替える機会を得ることもなかった。ニーナとは異なり、撃ち落とされなかったかもめとして空を飛び続けることができたということである。しかしそれゆえに、自分がかつて軽蔑していたような芸術の古い型へと落ちこんでゆくなか、信じる道を発見することができずに、死の破滅を迎えることになる。


かれら二人に待ち受ける結末が描いているのは、使命感かさもなくば死か、という人生戦略の対比ではない。その観点から言えば、二人の理想はともに打ち砕かれ、後戻りのきかない地点でばらばらになった夢の破片を拾い集めることしかできなくなっている。ニーナは夢見た栄光を手にすることはなく、過去の挫折を強迫観念のように抱え続けている。トレープレフは、自分の命もろとも、手が届くと思っていた新形式の芸術を永遠に葬ってしまう。かれらの結末は、剥製にされたかもめというグロテスクな表象へと溶けこんで、いつかは失われなければならぬ若者の夢想、破滅を免れることのできないみずみずしい精神というものの悲哀を強く感じさせるのである。

ハックスリー「すばらしい新世界」

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

行き過ぎた機械文明は、真理へ向かおうとする高尚な営みの代わりに、幼児的な卑しい遊蕩だけを人間に許し、科学の進歩と芸術の研鑽を「鎖でつなぎ、口かせをはめ」てしまう。そして、科学と社会が潜在的にもつ、進歩と改善を実現する能力は人類の幸福と安定という理念のもとにひざまずき、あらゆる人間の活動とその生産物が文明の現状維持のための膨大な経費として注ぎこまれる。ハックスリーのこの考えによると、退嬰した文明はみずからを末永く保存するために、生産と投資に注ぐことのできるエネルギーのすべてを、自分の目と耳をふさぐ集中力に費やすようになる。これは、進歩や改善に対する早すぎるあきらめや、未知なるものへの子どもじみた恐怖からではなく、新しい可能性と知覚を鼓吹する科学と芸術が、人間の尊厳というものを残らず忘却させる階級社会に対してどれほどの革新的な意義をもち、それゆえに転覆の脅威となるかを、いくつもの社会実験と歴史というみずからの経験から社会自身が学びつくした結果なのである。


類推を挙げてみよう。ハックスリーが描いた「新世界」は、アドルノ/ホルクハイマーが「啓蒙の弁証法」で述べているようなオデュッセウスを強く彷彿させるものだ。オデュッセウスは、海の魔物セイレーンの甘美な歌声の誘惑から逃れるために自分の部下である漕ぎ手たちの耳を蜜蝋でふさぎ、自身の身体を船のマストにきつく縛りつけさせる。かれの優れた智力は、美しい歌を聞きたい、真理を見届けたいという人間本来の欲求を充たすことが、どんなに恐ろしい変革をもたらすのかを見通しているので、その充足を否定することによってのみ、自分自身を支配し続けることが可能になることを知っている。そして、船乗りたちに対しても同様の抑圧が課させられることで、かれらの存在は集団の自己保存に奉仕するように改変させられてしまう。この見方にしたがうと、ハックスリーの文明社会は、崩壊を招来する自分自身の抑えがたい欲望をその卓越した理性によって鋭く感知するので、その構成員である被支配者たちに対してのみならず、みずからに対しても、真理への欲求を可能にする精神的な成熟を強く禁止するのである。


それでは、「すばらしい新世界」を精神分析の観点から眺めるとどう見えるだろうか。この機械文明は科学や芸術といった本当の喜びの価値を知りながら、それを否認し、封じているわけである。その代わり、人間たちには、触感映画<フィーリ>や薬物<ソーマ>によって即物的な快楽や惑溺するような感覚の悦びがふんだんに与えられて、かれらは好きなときに好きなだけ桃源郷をむさぼることができる。この文明を構成する社会制度と工場設備は、まるで、自分の代わりに心ゆくまで人びとが楽しむことを強制し、それを見て満足するためだけにあらゆる製品を、そして人間までも絶え間なく生産し続けているかのようだ。破滅的な何かが起きるのを阻止するため、ひたすら受動的に楽しむことを被支配者にゆずり渡し、機械文明は(あるいは統治者であるムスタファ・モンド総統は)能動的にはたらき続ける。そして、人びとが幼稚で未成熟な楽しみに耽るさまを眺めて、自分の欲望はそういうものであったと知り、初めて安心することができる。人びとが真に意味のある生産活動に手を染めないため、あるはずのなかった欲望をでっち上げるために、熱狂的に無意味な生産活動を続ける――ジジェクに言わせると、これは強迫神経症者の典型的な戦略である。