リチャード・ライト「アメリカの息子」

見えない人間 (1)

見えない人間 (1)

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これらの小説ではいずれも、目に見えない、しかし肌にまとわりつくような人種差別に抗おうとするアメリカ黒人の自意識とその奇妙な変節が描かれる。変節と呼ぶのは、小説の主人公たちは黒人と連帯する態度を示す共産主義団体に一度は接近するものの、けっきょくは失望とともに団体から離れて、社会と自分を切り離した単独的な世界の中に沈み込んでゆくからだ。

ラルフ・エリソンが「じぶんの肌の色を忘れるとき、ひとは透明人間になってしまう」と述べるように、こうした共産主義との微妙な距離感は、皮膚の色から離れることなしに社会の問題を語ることはできないという黒人の困難な状況を反映しているように思える。「アメリカの息子」では、黒人の少年は共産主義シンパの白人の前で「黒い皮膚にくっついているバッジみたいなもの」に還元させられてしまう。黒い皮膚がバッジのようにかれに貼りついているのではない。もしそうであるなら、黒い皮膚は単にかれを特徴づけるしるしに過ぎず、かれの希望に応じて黒い皮膚をまとったり剥がしたりできることだろう。そうではなく、バッジが黒い皮膚にくっついているということは、黒い皮膚がかれと白人のあいだに張り出してきて、かれの人格と内面がそのはるか後景に退いてしまうということだ。

映画「パラサイト」 リビングのイメージ

 

高級住宅街の一角にあり、建築家ナムグンの設計した豪邸には3つの階級の人間が暮らしている。屋敷の主人として君臨しその暮らしを気ままに享受する者、主人のおこぼれに与りながら召使いとして影のように生きる者、そして、まるで目に見えない幽霊のように霞を食って地下に生きる者たちである。庭の景色を楽しめるように意匠を凝らしたリビングで家族水入らずのときを過ごすことができるのは屋敷の主人だけであり、影のように生きる者や地下室の住人が這い出して来てリビングでくつろげるのは、主人がつかの間不在となったときだけだ。

この映画の舞台となっている豪邸、そして1階にある優雅なリビングとは韓国社会の縮図である。それは家族の団らん、満ち足りた暮らしを提供するために精妙に設計されたものでありながら、主人・召使い・地下室の住人という酷烈な格差を生み出し、そしてそれぞれの階級を担う者はたやすく入れ替わる。召使いの階級は主人に奉仕し仕事を与えてもらうことで膨大な資産の分け前に与ることができる。一方で、地下室は屋敷の設計の正当な一部でありながら、みっともない不名誉のごとくひた隠しにされている。そこに住む住人は主人にとって「幽霊」のように透明な存在でしかなく、それゆえにおこぼれに与ることもままならない。いずれにせよ、屋敷におけるかれらの地位はつねに脆弱で儚く、なにか正当な根拠に基づいているわけでもない。ムングァンの夫のようにリビングと地下室のあいだを往復するものもいれば、キム・ギテクのように召使いの階級から地下室の住人へとあっさり転落する者もいる。そしてこのことは屋敷の正当な所有者であるパク一家でさえ例外でなく、別の入居者によってかれらの後釜は容易に埋められるものなのだ。

映画の中盤において、主人(パク一家)・召使い(キム一家)・地下室の住人(ムングァン夫婦)が三者三様にリビングでの家族団らんを楽しむ場面が描かれている。それぞれが家族の会話を楽しみ、互いを慈しむさまに優劣はない。だが、かれらが優雅なリビングでくつろいでいるあいだは、別の家族は召使いの地位に甘んじて「ゴキブリ」のように目の届かないところに隠れるか、さもなければ「幽霊」のように地下室に閉じ込められていなければならない。高名な建築家の手による屋敷は、三つの家族が同時にリビングを楽しむようにはできておらず、誰かがリビングで主人となるとき、必然的に別の誰かが召使いとなり地下室の住人となる。この意味で、キム一家が召使いとなって主人であるパク一家の資産に寄生するのと同じ程度に、パク一家の暮らしはキム一家やムングァン夫婦の犠牲に寄生している。「パラサイト」とは、単にキム一家を指しているのではなく、格差と犠牲を生み出すリビングを取り巻く残酷な構造であり、そしてそれは韓国社会の宿痾そのものである。

この映画の筋書きが荒唐無稽に見えるとしたら、それは国という同じ屋根の下に住む者たち同士でありながら、分断と対立に彩られた韓国の格差社会が荒唐無稽だからである。いつか遠くない未来、主人と地下室の住人が同じ屋根の下で同じ家族となる日、地下室の住人がリビングへ「ただ階段を上がって」来るだけで迎えられる日を誰しも望んでいる。

マリリン・ロビンソン「ハウスキーピング」

 

解釈が難しい心象風景がいくつも描かれる。読後の余韻は、触れるだけで崩れてしまうかのような澄明さをたたえる霜柱のように名状しがたく美しい。鏡面の湖に投げ出された影、明るい照明があふれる室内と暗闇の屋外を分け隔てて鏡となる窓ガラス――境界をなすこうした半透明の膜に仮託されたアレゴリーについては、時間をおいてゆっくり考えてみなければいけない。おそらくそれは、失われた愛する家族を追憶するとき、残された家族の面影を透かし見ておぼろげに思い出そうとするその思い出し方であり、記憶のかなたへと後退してしまって、もう取り戻すことができない往時のつながりであり、追憶のたびごとに耐えねばならない喪失にぶつかる彼女たちの悲しみそのものなのだ。

マルキ・ド・サド「新ジュスティーヌ」

新ジュスティーヌ (河出文庫)
 

むろん、相互の幸福を実現することは困難であるにしても、男女いずれの人間もが、自分のために幸福を得ようと努力することに変りはないので、弱者はこの服従という行為により、せめて自分に許された最小限の幸福の量を取り集めなければならない。これに反して、強者は自分の気に入るあらゆる圧迫の手段を用いて、自分の幸福のために努力する。というのは、力による幸福の唯一のものは、強者の能力の十全の行使、すなわち、弱者のもっとも完全な圧迫のうちにこそあるものだからじゃ。

ここに私たちは、地上における快楽の総量を最大化すべしという、ベンサム的な功利主義の悪徳的な形態の極北を見出す。サドに言わせれば、美徳という名の弱者の快楽は、当人の健康や虚栄心、あるいは自己愛の産物に過ぎず、その快楽は一人の人間に許された幸福量に収まりきるものである。一方で、悪徳に染まりきった強者は、最大多数の弱者を圧迫すべく、その持てる権限の許す限り勢力を拡張することで、圧制の度合に比例して快楽を際限なく増幅させることができる。弱者の幸福は強者に服従していても生存に必要な最小限は保証されるのだから、強者のもっとも苛烈な勢力的支配が実現されるとき、かつてない快楽の総量が達成されるというわけだ。

サドの道徳原理(それはすなわち反道徳原理なのだが)において、人間の快楽を計量するという功利主義の難題が霧散してしまうことは興味深い。だがそれ以上に私たちを瞠目させるのは、サドとベンサムがその代表的な著作によって新たな倫理思想を世に産み落としたのが、いずれも1780年代であったことだ。

映画「白夜」(1957)

 

 

白夜(1957) (字幕版)

白夜(1957) (字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 映画では30半ばのように見えるが、原作において語り手は26歳の青年であるため、同じく若き青年の失恋と苦い青春を描いた、ツルゲーネフ「はつ恋」やプーシキン「オネーギン」と連ねて考えてみよう。これらの小説が生み出す独特の感傷は、明らかに、かけがえのない女性の愛を手に入れそこねた喪失感に向けられたものではない。そうではなく、喪失された女性の人となり、心性、心理をなにひとつ理解できないまま女性がみずから去っていったこと、そして自分の預かり知らぬところで女性がその価値をまばゆく放っていたという暴露がわれわれを狼狽えさせ、独りよがりな悲しみの淵に追いやる。ここで喪失されたものは女性の愛ではなく、その幻影である。そして、思い出される喪失は現実的な価値や可能性を含んだものではなく、ぽっかりと空いた価値の空白そのものである。というのも、夢想として砕け散った愛を思い出すとき、それは痛々しい思い上がりに腐蝕されており、過去を顧みるたびに見いだされるのは、有頂天のさなかでの束の間の高揚に彩られた自身の滑稽な戯画だけだからだ。このとき、女性の愛は過去を思い起こそうとする思考の射程のはるか消失点へと遠ざかり、温かみに満ちた恩寵をその虚ろな不在としてしか思い出すことができない。失っていることに気づいていなければ苦しみを味わうこともなかっただろうが、失ったことのないものもまた、その途方もない空洞によってわれわれをどん底へ責めさいなむ。

喪失したことのないものの喪失感、痛みを感じなかったことへの痛み、思い出すことのできない記憶がこれらの感傷を構成する。永遠に失われたものであるがゆえに、その不在もまた永遠の美しさを保ち、これを青春と呼ぶ。

はつ恋 (新潮文庫)

はつ恋 (新潮文庫)

 

 

オネーギン (岩波文庫 赤604-1)

オネーギン (岩波文庫 赤604-1)

 

 

フォースター「インドへの道」

インドへの道 (ちくま文庫)

インドへの道 (ちくま文庫)

われわれはしばしば、異文化との出会いと人生の新しい展望を混同する幼稚な下心を抱きがちであるが、現地の風土と人びとを目の当たりにして、感覚の甘い期待はなすすべなく押し曲げられ変質してしまう。


「インドへの道」は、異文化との接触による感覚のひずみがもたらす陥穽を、アデラ・クウェステッドとムア夫人という二人のイギリス婦人の経験を借りて剔出している。その陥穽とは、新鮮な経験によってこれから待ち受ける人生を試そうとする純真な人間がとりつかれる可能性への予感というものが、異国の地に足を踏み入れたときにこれまでにない惑乱を受け、手ひどい敗退を喫したという挫折の苦みを味わったあとで、同国人の仲間たちとともに異国の風土を眺めおろす場所へと逃げ帰ることにより、諦観と寛容という見かけを装った、典型的な偏見へと回収される罠のことである。

ウォートン「エイジ・オブ・イノセンス」

エイジ・オブ・イノセンス―汚れなき情事 (新潮文庫)

エイジ・オブ・イノセンス―汚れなき情事 (新潮文庫)

1870年代のニューヨークの上流社会に暮らし、メイ・ウエランドとの結婚をひかえたニューランド・アーチャーは、旧弊な家族観と小世界のつまらない慣習からの脱却を心の奥底で望んでいた。優雅でみかけの愛想は良いが、冷淡で不毛な社交界の日々は、かれの知的好奇心と芸術的感性を満たすものではなかったからだ。かれは、自分の漠然とした人生への期待を、離婚騒ぎを起こしたオレンスカ伯爵夫人の存在と彼女への愛慕に仮託し、ついには家族も地位も捨て去ってパリへ駆け落ちすることも辞さないほど思いは高まる。だが、アーチャーは、蔦のようにまとわりつく親戚づきあいの慣習に絡め取られており、結婚の威厳を保つこと、家族を醜聞や悪評から守ること、こうした旧い道徳観としきたりから抜け出そうとあがく真似をしていたにすぎなかった。かれの反抗の身振りが、不自由な檻の中に束縛されながらも、見かけの優しさに満ちた上流階級の温室の中でなされるものであることを感じ取ったオレンスカ侯爵夫人は、ひとりパリへと飛び立ち、アーチャーをニューヨーク社交界の温室にとどめておこうとする。それは、彼女の廉潔がなにより恐れさせたことは、かれが家族への責任と義務という現実から踏み出して、自分と同じように悪評と醜聞に塗れることだったからだ。アーチャーが彼女を愛すると同じほど、オレンスカ伯爵夫人はかれを傾慕しておりながら、二人の愛は遠く離れているときだけ間近なものとなる。こうして二人の愛は成就することなく、伯爵夫人は、アーチャーの胸の中で抽象的な愛の幻としてのみ生き続ける――。


このように、「エイジ・オブ・イノセンス」の主軸はいくぶん叙情に偏りすぎた、ややもすると図式的になりがちなロマンチシズムではあるのだが、私見では、この作品の出色は別のところにある。それは、旧式の家父長制の家族観に縛られる新婚のニューランド夫妻が、自分たちに与えられた限りの思いやりを尽くしながらも、互いの心理を測ろうとひそやかに呻吟する幾多の断片的な場面である。オレンスカ伯爵夫人という事件をめぐって、夫婦は、息苦しい家庭生活の慣習の枠組みのなかで、ときにすれちがい、ささいな嘘をつき、家庭の危機の兆候を愛想の良さでもって取り繕おうとする。円満な家庭生活に偽装されたこれらの駆け引きは小説においては明示されず、アーチャーの不義についてメイが本当のところどこまで知っているのか、知っているとしてどのように感じていたのかはついに語られることはない。アーチャーの目を通して語られるこの小説では、メイはその無邪気さと率直さによって旧弊な道徳観に埋没しきった、従順かつ家庭的な妻でしかない。しかし、この小説が徐々に描き出すことは、彼女に与えられた素朴な清楚さとは、実際は伝統的な社会慣習が彼女に押しつけたもので、彼女もまたアーチャーと同じく、自分を絡め取って離さない道義と家族観の中でもがき苦しむ、ひとりのかよわい人間だということだ。


エイジ・オブ・イノセンス」は、アーチャーとオレンスカ伯爵夫人によってそれぞれ代表された、異なる価値観の対立と葛藤が主題だと考えがちだが、実はこの二人の主旋律の裏に、メイというきわめて重要な伴奏が一貫して響いていることがわかる。社会慣習を写し取った絵画のようにただそこにいるだけだと思われた彼女は、主旋律の派手なロマンチシズムの影にたたずみながら、張り裂けるような胸をひっそりといだき、澄みきった目を青く涙に濡らしている。悲しみと不安に打ちのめされそうになりながらも、夫の心に触れようと届かない手を健気に伸ばす彼女の姿を透かし見るとき、読者は心を強く打たれる。